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国本由香
 『広島のエノキ』の本をきっかけに始まった長崎源之助先生との文通は大学生まで続いた。遺作『汽笛』の編集者。実行委員会メンバー。


 平和への祈りの物語


 汽車はまもなく杉木立をぬけて黒い車体をあらわしました。そして、するどい汽笛を寒さに張りつめた空気をひきさくように鳴らしました。
「ばんざい!」
腕白坊主がかけながらとびはねました。みんなも「ばんざい」と両手をあげました。
                       −『汽笛』(長崎源之助・作)より―

 2008年夏、一つの物語が生まれました。長崎源之助先生の110作目の作品、『汽笛』(ポプラ社刊)。平和への祈りが込められた、長崎先生渾身の一作です。

 平和の尊さ、命の大切さを書き続けてきた長崎源之助先生と私との出会い、それは28年前にさかのぼります。


 広島市内にある、年老いた一本の「被爆エノキ」のことをみなさんはご存知でしょうか?
戦時中、エノキは広島の陸軍病院の庭に立ち、傷ついた兵隊たちの憩いの場
となっていました。ところが、1945年8月6日に落とされた原子爆弾によって、エノキは大きく傷つけられました。しかし被爆して幹が半分になっても生き続けたエノキを、近くに住む、広島市立基町小学校の児童が心を一つにしてよみがえらせたのです。

 私が広島市立翠町中学1年の春(1992年)、この「被爆エノキ」を題材にした長崎先生の作品『ひろしまのエノキ』(童心社)に感動し、感想文を送りました。小学生の頃から長崎先生の童話が大好きで、たくさんの作品を読んでいましたが、その時、どうしても伝えたい想いがありお手紙を書きました。傷ついた被爆エノキを、そしてそのそばで、親エノキの遺志をついで生きるエノキ二世を大切に守っていく小学生の姿に、大きく心を動かされ、「みんなの心にも、エノキの想いを伝えていきたい」そう手紙に書きました。


 3ヵ月経った夏のある日、長崎先生からお返事が届きました。本当に嬉しかったのを今でも思い出します。当時、脳梗塞でリハビリ中だった長崎先生からのお手紙には、こう書いてありました。
「毎年、エノキに会いに行っていますが、今年は行けそうもありません。あなたに見に行ってもらえないだろうか?」
 その年の8月6日、家族で被爆エノキに会いに出かけました。「エノキ二世に、親エノキのような思いは絶対にさせたくない!」と、エノキの前で強く思ったのを覚えています。


 家に帰ってからすぐに「エノキは元気でしたよ。安心してください」と先生にお手紙を送りました。その時から、長崎先生との文通が始まりました。

 長崎先生からのお手紙にはいつも、戦争の悲惨さ、そしていきいきと好きなことに没頭できる平和の素晴らしさが綴られていました。

 翌年1993年8月6日、お元気になられた長崎先生は、広島へエノキに会いにいらっしゃいました。当日、ドキドキしながらエノキまで出かけました。初めてお会いする長崎先生は、すてきなベレー帽をかぶり、奥様と、編集者の方と時間よりも早く来て待っていてくださいました。

 当時、エノキのお世話をされていた福田安次さんもご一緒でした。夏の暑い日だったので、近くの喫茶店に入り、長崎先生のお話を聞きました。『ひろしまのエノキ』の絵本が誕生するまでのお話でした。そのお話をお聞きしているうちに、「私の中学にエノキはないけれど、仲間にエノキの心を伝えていきたい」と声が出ていました。その言葉がきっかけで、エノキ二世が自分の中学に来てくれることになるとは、夢にも思いませんでした。

 1994年3月、被爆エノキのまわりに育っていた、13本のエノキ二世のうちの1本を私の通う広島市立翠町中学校に植樹することになりました。ずっとエノキのお世話をされていた、福田安次さんが実現してくださいました。その年の夏には、長崎先生は基町のエノキだけでなく、植樹した翠町中のエノキ二世にも会いに来てくださいました。


 また、翠町中学の修学旅行先は長崎県でしたが、爆心地から近い長崎市立山里中学校とは修学旅行時にお互いの中学を訪問し、15年以上に渡る平和交流会を行っていました。
そういったご縁で、山里中学にも、エノキ二世を贈ることになりました。

 高校、大学になっても文通は続き、長崎先生と私をつないでくれたような一冊の本との「出会い」の場を子どもたちへ届けていくことが私の夢になりました。そして、児童書の出版社、ポプラ社に入社しました。
 入社後、ご病気のため、しばらく執筆をされていなかった長崎さんから、ある日お手紙が届きました。とても弱々しい字でした。「白内障もあり、うまく字が書けません。でも生きているだけでもうけものと言ってくれた人がいます。」と。しかし私は、「生きることは、書くこと」とおっしゃっていた先生に、もう一度筆をとっていただきたいという思いがどんどん強くなっていきました。


 思い切って原稿をお願いしました。思いの丈を手紙に込めました。
「書きたいです。嬉しいです。あなたが手紙をくれた日のことを思い出しました。最後の力をふりしぼって書きたい」とお返事をいただいた日のことは、今も忘れられません。

 お手紙をいただいて2週間後、長崎先生のご自宅にうかがいました。
そこで、『汽笛』の原点となる、先生ご自身の戦争体験談を聞かせていただきました。ゆっくり、ゆっくりお話される長崎先生の言葉には、とても熱い気持ちがこもっていました。お話が終わった最後に、「私の実体験であり、作家としての原点となったこの話を書いてみたいと思っています。いかがですか」と優しくたずねてくださいました。私は涙が込み上げ、「読みたいです。お願いします」とお伝えしたのを覚えています。

 更に2週間後、「完成しました」とお手紙が来ました。あとで知ったのですが、原稿は3日間で書き上げていらっしゃったそうです。当時、白内障を患っていらっしゃった長崎先生ですが、原稿用紙から字がはみだしていても気づかないくらい熱中して執筆されたのが、いただいた原稿を見てわかりました。そして、完成したのが、冒頭の『汽笛』という作品です。

 終戦をむかえ、長崎県の大村海軍病院(現・長崎医療センター)へ引揚げてきた兵隊と原爆孤児の交流を描いた感動の絵物語です。画家の石倉欣二さんは、長崎先生と何度もコンビを組んで絵本を作ってこられました。石倉先生は、図書館や資料館などに通って、当時の大村を想像しながら美しい風景を描いてくださいました。

 桜が満開になった2011年4月3日、長崎先生は87歳で永眠されました。
長崎先生はいつもおっしゃっていました。「一番恐ろしいのは、人間の忘れっぽさだ」と。過去を知り、伝えていくこと。かけがえのない「命」は、それぞれに一つだけの輝きであり、隣にいる相手のことを想像する気持ちが世界をつなげていくのだということを、先生は教えてくださいました。


 長崎先生の「平和への祈りの物語」は、日本中、世界中に優しい灯りを灯し続けていくと信じています。あたたかい灯りが、隣の人へ、またその隣の人へとつながっていくように、長崎先生の物語を届けていくことで、消えない灯りを灯し続けていきたいと心に誓っています。
 

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