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                           瓜生田和孝

 軍医だった私の母方の祖父・泰山弘道は、昭和19年3月に大村海軍病院の第2代院長として着任し、昭和21年3月に病院が軍から厚生省に移管されて国立大村病院となるまで、院長を務めました。その間、長崎原爆の被爆者千数百名を収容し、治療に当たりました。『長崎原爆の記録』という著書も上梓しております。

 私は昭和18年4月生まれですが、海軍軍人であった父が同年11月に戦死したため、それ以後は、母とともに母方の祖父母宅で暮らすことになりました。長崎に原爆が投下された昭和20年8月9日には、2歳4か月の私は大村海軍病院の官舎の縁側に裸で座っていて、「あつい」と言ったそうです。

 長崎市から大村までは光や熱は届いても、放射線は届かなかったため、私は原爆後遺障害に悩まされることはありませんでしたが、原爆の非人道性や原爆後遺障害の悲惨さについては、祖父から常に聴かされていました。

 長崎源之助先生や『汽笛』のモデルと思われる吉田勝二さんが入院されていたのは、国立大村病院となってからでして、その頃には祖父や私はもう大村にはおりませんでしたので、その頃のことは知りませんが、終戦時に勤められていた医師や看護婦さんの一部はまだいらしたかもしれません。

 長崎先生の作品の『汽笛』と『ひろしまのエノキ』に感動された実行委員会事務局の鳥居吉治さんが、広島原爆に耐えて生き残った基町小学校のエノキの子孫を、長崎原爆の被爆者を収容していた旧大村海軍病院の敷地に植えようと考えられたことは、とても素晴らしいことだと思います。長崎を人類による原爆投下の最後の場所とし、生き残ったエノキの生命力を見習って、地球の平和と人類の繁栄につなげていこうという発想は、日本だけでなく、世界に広げていかなければならないと思います。

 なお、私事で恐縮ですが、同じ原爆被災地という潜在意識があったのか、広島カープのセントラル・リーグ加盟以来、60年以上もファンであり続けています。

 本日は都合により植樹式に出席できませんが、植樹される場所には以前に行ったことがあり、思いを巡らせております。植樹式のご盛会をお祈りいたします。       

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