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松岡陽子マックレイン

 長崎源之助先生の『汽笛』を読ませて頂き、戦争の悲惨さ、ことに核爆弾の恐ろしさを戦後66年経った今あらためて、感じさせられました。 

 1945年8月に核爆弾が落とされたとき、私は東京の専門学校(現大学)の学生でしたが、その一年と少し前から戦火が激しくなり、学校でもクラスはなくなり、大学の屋内運動場が工場に変わり、学校工場と呼ばれ、私達学生は皆女工になってピストンという飛行機の部品を作っていました。

 

 毎日毎晩のようにあちこちで空襲があり、焼夷弾は諸処で落とされましたが、私どもの学校は幸い無事でした。そのうち先ず広島で、それから長崎で核爆弾が落とされたというニュースが届きましたが、私達は誰も核爆弾というものが、どんな爆弾であるかも知りませんでした。

 

 当時私達は家が東京でも、工場の仕事で朝8時から4時、4時から夜中の12時、12時から朝8時というように、二十四時間交代で働いていたため、皆学校の寮に住んでいました。私が仲良くしていた友人が広島爆弾投下の週末自宅に帰ったとき、科学者のお父様が「核爆弾というのは非常に恐ろしい爆弾だ」と言っていらしたと聞きましたが、私達はどう恐ろしいのかも分かりませんでした。

 そのうちだんだんと情報が入り、日本が大変なことになったのだと分かり、誰も口には出しませんでしたが、これでは日本は戦争に負けるのではないかと、心を痛めました。

 

 この度長崎先生の御本を読んで、そんな昔の事が甦ってきました。 『汽笛』は本当に良い御本で、被爆した子供たちのことを考えると、六十年以上も前のことでも、あまりに可哀想で読みながら、涙がとまりませんでした。何と酷いことをしたのかと今さらながら、恐ろしくなります。

 でもあの当時アメリカでは、爆弾を落としたから、日本がとうとう降伏した、そうしなければ、連合軍の多数が日本の多くの港に上陸して戦い、各都市の多数の市民が犠牲になっただろうと言いましたが、当時の日本の軍隊の指導者は頑(かたくな)で、いくら日本の存亡が危ぶまれるようになっても降伏しなかったでしょうから、これは本当のことだったのかもしれません。

 それにしても核爆弾を使ったというのは恐ろしいことでした。 私が勤務したオレゴン大学 のかなり昔の学長ですが、アメリカの最高学府ハーヴァード大学で博士号をとった優秀な数学者で、戦争当時、選ばれてマンハッタン・プロジェクトで原爆を作るのに参加した一人でした。あの頃は全国の大学から最も優秀な科学方面の若い学者を選んで、この企画に参加させたのです。

 

この学長は非常に良心的な人で、長い間自分が原爆を作った責任者の一人だったことを、後々まで罪深く思っていられました。大学の仕事で確か八十年代の終わり頃オレゴン大学と学生交換をしていた、早稲田大学と青山学院に行かれた時も大学の仕事が終わった後、自費で広島まで行き、千羽鶴を見た時は、涙がとまらなかったと、直接私に話して下さいました。

 

 三月の福島の原発事故の現状は、今でもアメリカの新聞やテレビでほとんど毎日のように、報道しているので、遠いアメリカに住む私も東北、ひいては日本全体がどうなってしまうのかと心配しています。被災された方々、復興の遅い東北地方のことはもちろん、その上全国での電力不足、心配することばかりです。

 殊に電力不足と言うと、現在我々の日常生活はすべて電力に頼っています。またどんな産物を作るにも電力が必要、それがなくては、重要な産物もできません。それで日本を入れて、どの文化国でも、石炭からの電力と違って公害がないため、核から電力をつくることになったのではないでしょうか。 

 アメリカでも核反対の運動があちらこちらで起こっており、日本も同じと思いますが、風力とか太陽熱を利用して電力を作ることに力を入れています。これからますます世界中でこれらが盛んになるのではないかと想像しています。でも風力の場合、アメリカのように広大な土地の

アの三分の二の面積と言われるほど狭い土地ですから、風力から電熱を作ることは難しいかもしれません。

 

 でも最近私は日本の友人からメールをもらい,彼女のご主人が核の物理学者いらして、現在危険性のない安全な核の発明に努力されていると聞きました。化学に疎い私はそんなことが可能かどうかも分かりませんが、本当にそんなものができれば理想的だと思い、それが可能であることを願っています。 将来危険な核がこの世の中から消えて、世界が安全になることを切に願ってやみません。

 

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